一体そこに何が詰まっているのか

僕達は誰しも願望を持っていて少なからずそれを実現しようと努力をしますが、この願望に必要な手順を面倒くさがる傾向にあります。これは怠慢ではないと思うのです。咲こうとした日が花盛りでは無いでしょう。ゆっくり時間をかけてその目標に向かっていけばいい。とはいえ、時間は有限で、さらには才能がある者や努力を怠らないものが先に自分の願望を叶えてしまいその席を取られてしまうため、ゆっくり時間をかける暇なんてないというのは20年近く生きていればいやでも実感することでもあります。

ならば自分の才能を見極めた上で努力を怠らなければ良いのでしょうが、自分が出来ることと自分がやりたいことというのは必ずしも合致しないため、僕らは怠けてしまうのです。

何が言いたいかと言うと、僕は自らを成長させる上で必要な努力を怠っていることに対する正当化がしたいのです。

今は春休み延長戦の真っ只中ですが、僕の場合3ヶ月半あった春休みのうち2ヶ月半を無駄にしてしまったわけで、残りの1ヶ月をどう過ごすかよく考えなければならない時期に入ったのだと思います。

この2ヶ月半僕はひたすらゲームをやり続けた訳ですが最近感性が著しく悪くなった(?この使い方であってるかどうかはこの際どうでもいい。〜が乏しくなった。の方が多分正しいが書き直すのは面倒なのでしない。)と思うようになりました。

あまりに文に触れなさすぎて元々乏しかった感性がさらに乏しくなり、加えて語彙力も低下した気がします。

じゃあ今すぐ辞書とにらめっこしながらいかにも難しそうな本を読むなりすればいいじゃないかと思う人も沢山いると思います。僕もそう思います。けど実際僕は読書好きと言うよりは移動中の暇つぶしのために読んでいたという方が正しいので家の中にずっといるとそうもいかず、ダラダラゲームをして過ごし、気づいたら朝日を拝み、重くなった頭を枕に叩きつけて寝るような生活を送っている訳です。

ゲームをすることが悪いと言ってる訳じゃなくて、刺激的な体験を得ることはもちろんいい事だし、いい天気なのにマスクを外して外を走り回れないこのストレスフルな時期ではストレスの発散方法としてかなり有効だとも思います。

けれど、僕がしたいのは本当はそうじゃなくて、心が上下左右に揺れるような体験がしたいわけで、ゲームばかりやっていてはそうはいかないのは百も承知な訳です。

じゃあどうすれば良いのかと聞かれたら僕は自信満々に「今しか出来ないことをやり尽くせばいいじゃないか」と答えるでしょうが、自身で実行するとなると思いつかないんですよね。家の中に長時間いなきゃいけない今だからこそ出来ることって元から自由な時間がそこそこある学生の身分では絶対に実感できないんだろうなと思います。

本当は身近なところに沢山そういうものが転がってるはず、というかそう信じたい。身近なところから拡がっていくライトなファンタジーとか僕好きなので。

じゃあ探せばいいじゃないかとも思うんですが、トカトントンよろしく何をやろうとしてもやる前にやる気がなくなってしまうんですよね。

そこを乗り切らなければ何も始まらないのは自分でよくわかってるつもりなんですが、いや、これだと無限ループしてしまうのでもうこれについて考えるのは辞めます。

 

そうえば12月頃神保町で買ってきた古本まだ読んでないな。読もうかな。それが面倒だから手をつけてないわけだけど。英語の勉強もしなくちゃいけないんだよな。テストがあるので。料理もちょっとしてみたいなと思ったけど結局やってないな。料理に関しては今後もやる予定は無いけど。

受験が終わったらもっといっぱいやりたいことがあった気がするのに気づけば大したことないな。

やっぱり一日中同じことばっかしてると頭が固くなるのかもしれない。間違いないと思う。

『気づき』って要するに上手く生きるコツなんだと思うんですよね。世の中で上手くいってる人はそれが上手なんだと思うんです。気づける人が見てる景色とそうじゃない人が見てる景色って相当違うんでしょうね。僕はどっち側なのか自分ではわかりませんが、自分のことを棚に上げるのだけは得意です。

じゃあこの『気づき』ってどこから来るのかといえば、それはいわゆる雑学と呼ばれるもの、高尚な言い方をすれば教養でしょう。別に知らなくたって不自由なく生きることだけならば出来るものですが、そもそも気づけないならば自分が不自由であるなんて分からないってことなんでしょうかね。断片的な、いや、様々な分野の初歩的な知識を沢山持ってることで自分の生活が豊かになるのかもしれませんね。知らんけど。

じゃあ真に豊かな生活って何?と言われると正直いって分からない。気づきが一切ないけど幸せならそれでいいのかもしれないし、気づいてしまったからこそ不足感を一生拭えずに生きることはひたすら辛いだけなのかもしれない。

「知らない方が幸せだった」なんていう言い回しは映画や小説なんかでよく見かけますが、少なからず気づきを持っている時点で豊かになるチャンスを持っているということで、そして、それを生かす能力がないから不満に思ってしまうのか。実際のところ僕には答えが出せません。

でも、僕が今の生活に少なからず不満を抱いているということは気づけているということでもしかしたら豊かになる1歩手前まで来ているのかもしれません。

けれど豊かになることで、新しく何かに気づき、また生活に不満を覚えるんでしょうか。

こんな実感の湧かないような話を永遠とすることは僕の本意では無いのですが、それこそ気づいてしまったからにはもう手遅れなわけで多分少しは悩むんだと思います。そういう時に自分を正当化する必要があるのかもしれません。

でも安らぎよりも素晴らしいものに気づいてしまったからにはここで正当化せずにきちんと考える必要があるんでしょうね。

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↑安らぎよりも素晴らしいものに気づいてしまった僕

とりあえず生活習慣を治すところから始めようと思います。

何かに気づいたらその都度何か書いていく予定です。そうえばこのブログってそういう感じで、気づき、考えたことを書こうと思って始めた気がするな。もう思い出って言えるレベルで前の話だけど。

さよなら。