脳を焼かなければ
生きることは辛いことだ。
何をしたって特に報われない。死ぬほどの苦労も何かの気まぐれで全て水の泡だ。水の泡ですらないかもしれない。水でもなく泡でもない。強いていえば窒素だ。
クリスマス前にこんな文章を書いていたらきっと勘違いされてしまう。ショッキングな出来事でもあったのだろうかと推察されてしまう。違うのに。むしろ何かあって欲しかった。明確な理由があって、対処法が分かればこんなことにはなっていない。
自分自身がとても穢れているような感覚でここ数年生きている。人間に触れられるのがとても怖い。人と話すことに喜びを感じにくくなった。何もかもが面倒で全て辞めてしまいたくなる。
ずっと前から自分はこんな感じだ。最近それが悪化して全く眠れなくなってきた。部屋を暗くすると腹痛が始まるし、目を閉じれば頭痛が起きる。
理不尽な妬みの話をさせて欲しい。
自分には兄がいる。だらしない兄で、運動神経も頭も自分の方が遥かに良かった。元々自分の方が優れていたわけではない。ただ自分の方がよっぽど努力しただけだ。中学生の頃、親の仕事の都合で自分は海外で暮らしたが兄は日本に残った。大学受験も上手くいかず浪人しては予備校をサボっていた。自分は言葉もろくに話せないのに海外へ行って地獄のような思いをした。誰か殺してくれ、と何度思ったことか。自分はヨーロッパに居たが、小学生の頃からやっていた野球を諦めさせられた。野球人口があまりに少ないのだ。オランダは比較的多いと聞くが。
大学受験だって死に物狂いで勉強した。兄のようにはなるまいと、今に見てろと思っていた。結局上手くは行かなかったが。多少の成果以上のものは手に入らなかった。それでも兄よりかは努力していたし、そのことは結果にも出ていると思っていた。
話を戻すと、多くを諦めその代わりに豊かな人生を得ようとした。色んなものを沢山努力して全てを手に入れようとした。けど結局何も手に入らなかった。
一方兄は多くのものを手にしていた。幸せ者になっていた。あれだけ怠けておきながら、なぜ、どうして、そんな事になるのか。兄は近々結婚するらしい。良かったな。仕事もどうやら順調そうだ。凄いじゃん。でもなんでどうして今の自分はこうなのだ。今までしてきた地獄のような思いが全て無駄だったというのか。生きていたことの意味がなかったとでも言いたいのか。
生まれて来なければよかった。
心の底から思う。生まれて来なければよかった。このまま健康に生きてしまって死ぬまでひたすら地球上のリソースを消費し続けるくらいならちょっとでもこの地球の健康に貢献する行動をした方が良い。何事も上手くいかなかったがそれだけは上手くいく気がする。上手にできる気がする。きっと褒めてもらえるな。
こんなことを考えていても、意味が無い。ので脳を焼こう。脳の苦しみを感じる部分を焼き尽くそう。代わりに楽しかった記憶だけを貼りつけておこう。全てがくだらない。ので自分のくだらない脳みそを焼き尽くす。
出来の悪い人類(不出来な約260個の関節)
うっすら嫌な空気が自分の身の回りを覆っている感覚がある。
きっと湿気なんだろう。湿気じゃないとしたらなんなんだ。もし湿気ではないとしたら、それを明確に言語化して頭の中に思い浮かべてしまったら、自分のダメなところを全て自覚してしまう気がするのできっと知らない方がいい。
特に幸せではないけど(世の中には勝手に他の不幸な人間と比較して幸せだと言ってくる人がいるけど)、不幸でもない。でも毎日ちょっとだけ嫌な気持ちになる。朝起きるのが嫌だし、通勤電車に乗るのが嫌だし、会社の人に対してニコニコするのも嫌だし、帰ったらお風呂に入って歯を磨いて早く寝なきゃいけないのも嫌だし、早く寝なかった次の日は起きるのがもっと嫌になる。
嫌なことを数えたって意味が無いのは分かってるんだけど考えてしまうのは怖いもの見たさなのか。
だいたい嫌なことって大抵決まってる。人生の中で嫌なことのレパートリーってそんなに多くない。それよりも嬉しいことの方が種類でいったら沢山あると思う。なんなら嬉しいことだと思ってなかったことが案外自分にとっては嬉しいことだったことだってあるとは思う。そういう今まであった嬉しいことを数える方が遥かに有意義だ。
でもやっぱり嫌なことばかりを数えてしまうのは、進化の過程で人間に備わった機能なんだろうな。嫌なことをより鮮明に覚えておくことで身の危険を回避しやすくなる、とかそんなところだろうな。改めて人類ってよくできてるなぁと思う。でも嫌な気持ちになることがいい事なわけが無いのでやっぱり人類はダメだ。
自分にいつでも人類を滅ぼすことの出来るスイッチをくれ。使わないから。いつでも人類を滅ぼすことができるんだぞって自信だけで十分楽しく生きていけると思う。
自省(もしくは呪い)
トイレに入ったら清掃員のおばちゃんに「おはようございます」と言われた。無視して個室に入ってしまった。急いでいたのもあるが、座ってから自分は今あのおばちゃんを見下したんだと気づいてしまった。そのことに気づいて嫌になった。
人を軽んじる事だけはなるべくしないように生きてきたつもりでも、何の気もなしにそういうことをしてしまう。いくらなんでも愚かすぎる。典型的な人類すぎる。世の中ろくな人間がいないが、自分もろくな人間では無い。まともな人間なんてこの世にいるのか。他人なんて自分と相容れないからこそ他人なのに、他人にまともさを求めることが1番愚かだ。自分が1番愚かだから他人も愚かに見えるのかもしれない。自分がまともじゃないから他人がまともに見えないのかもしれない。なら軽んじてもいいのかもしれない。(主観上の)愚かな人間、まともではない人間なんて軽んじられて当然だ。自分も軽んじられて当然の人間なんだ。だから他人を軽んじるのは当然のことなのかもしれない。
だからと言って道徳的観点から他人を軽んじるのは良くないね。死刑!
冷静さを保つ必要がある
もし、地獄というものがあったとして、それが完全に未知の世界で、目に映るもの全てが自らの理解の範疇を超えていたとしたら、何一つ理解できない世界の中で唯一、炎だけが自分の知っている現象だったとしたら喜んで飛び込んでしまうかもしれない。それはきっと、自傷行為なんかではなく、孤独に耐えるためのひとつの手段としてなのかもしれない。何一つ理解できない空間に唯一存在する、自分の理解できるものがあるというだけで、とてつもなく価値のあるものに感じてしまうかもしれない。
世の中分からないことばっかりだ。ここ最近毎日ニュースを見ているけど、結局自分には関係の無い話ばかりだ。あの人がこうした、とか、こういうことが起こったから誰々が得した/損した、とかいわれてもいまいちピンと来ない。
もっといえば身の回りで起こっていることさえよく分からない。自分がどうしたいかもよく分からないし、なにより、他人が何を考えているのかもよく分からない。
他人が何を考えているのかは、(相手によるが)歩み寄って理解をすべく努力するべきだとは思うけど、いくら考えたって理解できないことがあることは自覚しておくべきかもしれない。
この世界は(少なくとも身近な所は)解明し尽くされたと思っていたけど、案外そんなことはなくて、まず、人間が解明し尽くされていないのだから分かるはずもないんだろうな。
だからこそ他人には冷静に対応しなきゃいけない、少なくとも今は。その結果についても冷静に対応しなきゃいけない。人の感情には波があることを自覚しているだけでもだいぶ違うんだろう。ありえないレベルの腹痛の時みたいに、辛い時と比較的楽な時があるってことを理解しないままどん底まで落ちたら戻れないとこまで行ってしまう。
自分は他人に求められるような人間じゃないけど、しかし一方で身の回りの人は優しいからきっとそんなこと言ったらかなり慰めて貰えるんだろうな。そんな女々しいこといいたくないから絶対言わないけど。でも自分じゃなきゃダメな居場所なんかひとつもないんだろうな。
結局他人の中の理解できる部分だけを見て、その部分が良かったら他は意外とどうでもいいのかもしれない。というかそのくらい割り切って生きるのが楽しい生き方かもしれない。
根比べだったら誰にも負けない自信があるけど、根比べなんかしてたって何も改善されないんだろうな。だったらノイローゼになるくらい何かを頑張ってみて、何かしらの結果に一喜一憂してるくらいの方がいいのかもしれない。自分はあまりにも広く浅すぎるのかもしれない。ひたすら耐えることが得意すぎるあまりに、暇潰しで小手先の事ばかり覚えて何かを極める努力をしなてこなかった自分には当然の報いなのかもしれない。
だったらもう割り切って「何も極めない人」になるべきなのかもしれない。この世の誰よりも色々できるけど何かは成し遂げることが出来ない人を目指すべきなのかもしれない。
きっとその結果何も得ることが出来ないだろうけど、その過程で機嫌が良い時もあるだろうから、たまに機嫌の良かった時のことを思い出して死ぬまでひたすら耐えるのが自分に合った生き方なのかもしれない。
焦土の夢を見た
最近良くないことが立て続けに起こっている。
自分の思い通りに事が進まないことがいくつかあったり、翌日お見舞いに訪ねる予定だった離れた場所に住む祖父が急逝したりと、泣きっ面に蜂の代表者1名を日本国民から選ぶとしたら少なくともノミネートはされる程の散々っぷりである。ここまでくると陰謀論やオカルトに思考を歪められる人間の気持ちがわかるような気がする。何とかして納得したいんだろう。何か、例えば、極悪人の企みに巻き込まれているとか、自分に悪霊でも取り付いているとでも思わなければ、ここまで不運が続いていい理由に説明がつかない、と考えてしまっても無理はないのかもしれない。
自分は世界最強なので、不運が続いても軽々しく「死にたい」だとか「消えてなくなりたい」だとかは思わないが、さすがに地球か太陽を破壊したいぐらいは思った。
自分がいくら世界最強でも他人はそうではない。当たり前だけど自分の思い通りには出来ないし、普通に死ぬ。自分のことを世界最強だと思い込むよりも先に、もっとやるべきことがあるのかもしれない。祖父の急逝はともかく、色々なことが自分の思い通りに進まないのは自分の努力不足だし、祖父の急逝に関しても全く後悔がない訳では無い。
半年前にも祖父の様子を見に行ったが、帰り際、誰がどう見ても悲しげな表情をしていたのに、まだ会えると思って声をかけずに別れの挨拶をしてしまった。当時はそっとしておくべきだと考えてしまった。もちろん余命に関して特に聞かされていなかったこともあって、また会えると当然の権利のごとく考えていたからではあるが、まさかこんなことになるとは思わなかった。
自分の人生の中でこういうことが多い気がする。準備不足のくせに、万全を期して居ないくせに手遅れになった後に「まさかこんなことになるとは」と後悔をする。そういう楽観的なところが自分の好きな部分のひとつだけど、それが常に良い方向に傾くとは限らないことを肝に銘じておくべきかもしれない。でも常に万全な自分なんて想像もできないし、治す気もないし、治そうとしたって多分死ぬまで治らない。むしろ万全を期してもどの道生まれる後悔に対して「自分は楽観的だから」と思えるだけでもマシなのかもしれない。
そんなわけあるか
いつもに増して脱線しすぎたし軌道修正を諦めた
どこかの何かの作品の中に、世界を変えますか?あなたが変わりますか?みたいな問いかけがあった気がする。唐突に思い出してしまった。印象に残ったセリフとかを口に出してみたくなる時がある。
それはともかく、世界か自分のどっちかを変えられるとしたらどっちを変えるんだろう。いや、きっと世界を変えるんだろうな。自分でいうのもどうかと思うが、自分は自己肯定感に溢れているので自分を変えようと思ったことなんてない。自分に嫌な部分がないとは言わないが。自分の嫌な部分ってせいぜいあまりに楽天的すぎるところだし、むしろ楽天的だからこそ毎日楽しく生きられているに違いない。
ともかく、自分に対する言い訳が上手すぎるんだ。自分を慰める方法なら世界の誰よりも知っているかもしれない。この世の誰よりも自分が自分に優しいせいで、この世全ての人間はきっと自分より(自分に対して)優しくない人なんだろう。自分の周りはとても優しい人たちで溢れているが、そういう人たちも人間なので無礼を働いたらきっと怒る、ないし話しかけてくれなくなるだろう。自分でも無礼を働かれたらきっとそうする。自分は自分に対して常に慇懃無礼を働き、蔑ろにして、適当に扱ってるが、それが他人から向けられた途端怒り出すんだから、ある意味自分勝手なんじゃないか。かと言ってそんな扱いを他人から受けて怒り出さないのも問題な気がするが。
自分を自分で雑に扱うことを自業自得だから怒れるわけが無いとするのも分かるけど、自分で自分に怒らない人間が他人に対して怒っていいものなのか。
自業自得という言葉があるけど、他業自得や自業他得という言葉がないのは、それが納得いかない出来事だからなんだろうな。他人のせいで自分が損をしたりその逆も生きていればよくある事だけれど、誰にとっても腑に落ちない出来事だからこそ腑に落ちる表現も生まれなかったんだろうな。他人のせいで自分が損をすることを表した言葉ってないかなと思い考えてみたけど「正直者が馬鹿を見る」くらいしか思いつかなかった。でもなんか違う気がするな。誰も悪くなくて、ただただ運が悪いだけで損を被った人だっているだろうに。それこそ人間万事塞翁が馬って表現が1番あってるのかもしれない。
話が脱線しすぎたが、むしろ、脱線しながら考え続けたことをこのブログでは書いてるんだけど、いや、実際には考えたというよりかは頭に浮かんだことをひたすら文字に起こしているだけなんだど、あまりに脱線しすぎては全く統一感のない文章になってしまうので(既になっているが)話を戻すと、いや戻す必要も無いか。
おしまい。
人生の最後に後悔できるか
大学生になり、20歳を超え数年過ぎた。自分が高校生の頃は万能感に満ちていた。何にでもなれると思っていた。水中から陸にあがり、4足から2足で歩くようになったように、今度は空でも飛ぼうか、と思えば実現できるような気がしていた。しかし実際のところは日々生まれる可能性を自ら殺し続け、最終的には一つに絞り、「何者か」にならなければならず、何にでもなれるはずなのに、「何にでもなれる人」にはなれないのだった。「何者か」になることこそが人生の目的で、それが出来なければ負け組で、それを達成することはとても苦しいことなのだろう。目的を果たしてなお後悔するのだろう。
と、最近までは思っていた。
けれど、むしろ人生の目的とは、その最後に気持ち良く後悔することこそにあるんじゃないかと考えるようになった。可能性は生まれ続けてしまうもので、だからこそ後悔は避けることができない。人生の最期に後悔しないためには何もしなければ良いのかといえば、それはそれできっと後悔する。結局人間はその人生の最後に必ず後悔するようにできているんだろう。
人は何者にでも多分なれる。何事も始めるのに遅いなんてことは無いなんて言葉はよく聞く。実体験は無いが。自分が選んだ道に対して取り組んでいれば(あるいは何もしなくても)きっと新たな選択肢が生まれるんだろう。何かを選ぶということは、何かを選ばないということであって、後悔しない選択肢なんかきっとないんだろう。でもそうやって色々やってみて、こうしておけば良かったかもしれないとか、こういう道もあったとか考えて、そんなふうに人生の最期に人生最大の後悔ができたなら、そして、それでも自分はこうしたんだ、と思えたならきっと悔いは残らない