無いものをあると言い張る勇気

世の中無いものばっかだ。幸福は無いし、希望もなければ夢もない。ついでに今は冬だけど、温度も足りてない。とても寒い。電車から出た時、絶望感から体が端から消えてなくなりそうになる。

でも、ないと思っているだけで、本当はあるって思えばあるのかもしれない。星の王子さまは本当に大事なものは目に見えないと言ったけど、目に見えないなら実在するかどうかなんてどうでもいいのかもしれない。温度計と五感を否定して、自分の精神にのみ従っていれば幸福で希望や夢に溢れた素晴らしい人間になれるのかもしれない。病的だが。病的に生きることこそが素晴らしく生きることなのかもしれない。というより自分の人生を素晴らしいものであるとする勇気がないだけなのかもしれない。本当は素晴らしくなかったらどうしようとか、もっと素晴らしい人生を送っている人がいっぱいいるかもしれない、とかを無意識に考えちゃってそう思うこともおこがましいと思ってるのかもしれない。自分は間違いなく世界最強の人間だけど、世界最強なだけで世界最高の人生を送ってはいないのかもしれない。

まぁ全部夢なんだけど。

ジ故事コ成語(カバンに入れた水)

今日せっかく学校に行く前に珍しく水をカバンに入れて出かけたのに、そんな日に限って休みだった。いつもは授業の前にお茶を買うのに、今日に限って勿体ないから家にあるペットボトルを持っていこうとしたらこれだ。こんな日があってもいい。無い方がいいけど。あったらあったでいいかもしれない。というか既に起きてしまったことなんだから何とかして肯定しないとクラムボンになって消えてしまう。まぁ消えてもいいんだけど。透明にならなってもいいな。この世から消えて無かったことになるのはさすがに嫌だけど。

自分にとって都合の悪いことは全部自分に対する薬なんだと思うようにしてる。自分を嫌な気持ちにさせることで自分の何かが良くなっていくんじゃないかと思えば多少の不愉快さも耐えることができるし、何より良いのが、単なる不愉快さが自分にとって必要な犠牲になることだ。

電車で眠くなると体調が悪くなる。俺は悪くない。天変地異で目が覚めた日の朝にゆっくりコーヒーを入れる余裕が欲しい。

寝る時起きた時

寝る時あんなに安心して眠るのに起きた時絶望するのは何故なんだろう。起きた時の絶望感を知っているはずなのに寝る時には忘れられるのは、冬の寒さに懲り足りないからなんだろうか。どうでもいいが。

自分がどうするべきかを考えるべき期間から自分がどうしたいのかを考えるべき期間に突入した。できることとやりたいことは往々にして噛み合わないものだけど、少しでも両者が歩み寄ることができるように努力するのが生きるということなのか。今は分からないし知りたくもないけど、死ぬ直前に誰かに教えてもらいたいな。それで自分の考えてたことがてんでダメだったら悲しくなって恥ずかしくなって「もう死ぬんだしちょうどいいか」という気持ちで人生最大の声量で「俺の負けだ」と叫ぶんだけどな。自分の考えが合ってたらきっともっと生きたいって気持ちで無念って思うんだろうな。文字通り念が残って残念なんだろうな。じゃあ無念ってなんだ。念も残らないほどのやりきった気持ちのことなのか。まぁどうでもいいけど。「無念」と呟きながら消えてなくなるシチュエーションに一生遭遇する気がしないし。

でも今まで「無念」と呟きながら消えていった人間もそういうシチュエーションを想定していた訳じゃないだろうからもっと適当に使っていい言葉なのか「無念」って。手軽な言葉なんだきっと。

 

嫌な○○かいっ!

会話の中のツッコミで「嫌な○○かいっ!」というものがあると思う。聞いたことある人もない人もいると思う。自分の価値観を押し付けてくる人間の話のツッコミとして「嫌な親戚かいっ!」って言うこととかあると思う。

でもこのツッコミって○○の部分が人間を表す言葉なら割となんにでも当てはまるんじゃないか。

例えば「嫌な人種かいっ!」って言ったとして、どの人種を指すか特定してしまえば差別的発言になってしまうが、それはともかく、ツッコミとして成立してしまうんじゃないか。

どうしてこのようなことを思ったのか。最近とある会話の中で「嫌な親戚かいっ!」というツッコミを耳にしたからだ。

 

新しいものを懐かしいと嘯くな。うそぶくなと読むらしいです。

懐かしいものを新しいと書き換えるな。

偏向報道紛いの感想を聞いてみだりに安心したりする。

 

幽霊は夜笑う(嗤わない)

変わり者でいないと多分自分は生きることが出来ない。並外れた人間でありたいわけじゃない。他人との違いを認識し続けなければ居なくなってしまいそうになる。

他人となるべく違う人間であろうとしつつも、浮かないようにギリギリのラインを攻める必要がある。常識的な人間の範疇を超えたら最早人間として扱われない可能性がある。

そもそも変わり者であろうとしたところで、真の狂人には敵わない。努力型の狂人は結局のところ本性がまともだからいずれボロが出る。

 

大人になるということは四足歩行から二足歩行になるように、かつて海で暮らしていた生物が今は空を飛ぶようにもっと身軽になるようなものだと思っていた。実際にはあの手この手で自殺を試すようなものだった。有り得たかもしれない自分をひたすら殺し続けて結局今に不満を持っているのだから袋小路だ。この文のボリュームが足りない気がするけど気にしない。

自分は何者になれるのか。(偽)

最近スーサイド・スクワッドという映画を見ました。極悪人達が活躍する映画と聞いていたので汚い言葉とド派手な爆発でノリと勢いで押し切る世紀末ヒャッハーな映画だと思っていたのですが、想像よりもゆっくり話が進んだので虚をつかれたような気分になりましたが、まぁまぁ楽しめました。けどまぁストーリーがところどころ大味で気になってしまう点がチラホラあったり、ゆっくり話が進むせいで若干テンポ悪いなと感じたり。

普段僕は映画を見る方では無いのでこんなこと言ってたら映画好きに怒られそうな気もしますがそう思っちゃったなら仕方ないでしょう。

ただエンディングの映像が良かったです。あそこだけもう1回観たい。アマプラにある限りいつでも見れるんだけど。

こういうことをアメコミ映画で考え始めたらもう楽しめないんだろうな。映画に出てるそれぞれのキャラクターのバックグラウンドを全く知らなくても楽しめるようにするためには仕方ないんだろうな。そんなもんなんだろうなアメコミ映画って。爆発を楽しんでブラックジョークを笑い飛ばすもんなんだろうな。きっと「ブラックジョーク」という言葉もそのうち良くない言葉として使われなくなるんだろうな。悟りを開いた気になってる人間が自然淘汰のフリして世界を作りかえちゃうんだろうな。気づいたと思ってるんだろうな。より善い世界にしたいんだろうな。思い通りの世界に作りかえたいんだろうな。誰だって自分が居心地いい場所を作りたいんだろうな。まぁ自分は勝手にやっとくので好きにすればいいんだけど。勝手にしとけばいい世界だったらいいのにな。

どうやら自分は成人してから数年経つらしい。もう立派に大人の仲間入りしたはずなのに、人生の節目としては十分すぎる時を過したはずなのに、一生生まれ続ける可能性の中から取捨選択してきたはずなのに、未だ見通しが立たないのは怠慢なんだろうか。

言い訳ならいくらでも浮かぶ。そういう人だって大勢いるので自分が特に劣っている訳では無い、だとか、そのようなことを考えているうちは問題ないだとか。

でもそういうことを考え続けているのが本質的な問題であって、何かしらの目的を見つける必要があるんだろうな。無からある地点においてのゴールを生み出すことが死ぬよりマシな状態ってことなんだろうな。別に今の自分は幸せだと自信を持って言えるけど今の自分に未練も後悔もあるかと言われれば少なからず悩んでしまうと思う。

何者かになるために今まで取捨選択をし続けて有り得た自分を消し続けてきたのに「結局こんなもんか」、「そんなものだろう」と自分に形式上の納得すら与えられないのは自分が目立ちたがり屋だからだろうか。

まぁ死にたくないから生きておこっと。

 

ちょっと前の日記

ちょっと前の日記を携帯のメモに書いていたのを見つけたのでここに載せておきます。

 

口に出す程じゃない違和感

・眼鏡をかけたお坊さん

 

今日あったちょっと嫌なこと

・ポテチの袋を持ち上げたら落としてポテチをぶちまけた

・タクシーのドアにぶつかり自転車転倒、直後にバスと衝突 男性死亡。というニュースを見て、こんな運の悪い人もいるんだなと思った。被害者も加害者も。

 

・寝落ちも出来ないまま午後3時になった

・ペットボトルのキャップ落としちゃった時付け直すのすげ〜悩むけど結局つける