幸福の定義が覆るほどの左足の痛み

どうもこんにちは。年末年始いかがお過ごしですか。僕はクリスマス辺りから年始の全てを寝込んですごしていました。だいたい2週間くらい熱が全く引かなくて年末年始の予定が全て吹き飛んでしまってどうやって世界を終わらせるかだけをひたすら考え続けた年末年始でした。

そんな悲惨な時間を過ごした僕ですが、月並みな人間として休みが終われば本来の日常を取り戻さなければいけないわけで、体調が良くなったタイミングで休みが終わってしまいました。タイミング良いのか悪いのか分からない。きっと呪われているに違いない。賢く生きさせてくれ。

そんなわけで久々に外出しました。約2週間寝込んだ後に外出するのはきっと体に悪い。根拠は無い。サウナは体に良いという説と同じくらい根拠は無い。いやでも実際階段降りる時とか太ももプルプルしてるし、左足の裏がとてもとても痛いのでやっぱ体に悪いに違いない。そうであってくれ。少しでも自分の思考が正しかったと、自分と世界のズレを否定して欲しい。

電車に乗るのも久しい。この混雑が懐かしい。全部嘘みたいな事ばかりだけどこの不快感だけは間違いなく本物だ。本当は嘘みたいなことばかりでは無い。現実逃避の言い訳でしょう。でも本当だと思いたくないからやっぱ全部嘘だ。世界は自分を中心に回っている。自分がいなくなったら世界は無くなっちゃうし、思い通りにいかないことや上手くいかないことは最終的な達成感を得るために与えられた試練なんだろう、ありがた迷惑だが。

でも左足の裏が痛いのだけは許せない。やっぱ明日世界終わらせよう!

いびつでゆがんでひねくれてねじれた人

不正と書いていびつと読むし、不正むと書いてゆがむと読むらしい。そんなの普通に生活していれば当たり前のように読めるが、意識してこの2つの言葉を並べてみると、もっと言えば漢字の成立ちも合わせてみればどうやらそれらは良くないことらしい。正しくないらしい。

最近自分のしょうもなさに飽き飽きし始めている。別に中学生の頃の自分みたいに「あーあ、毎日つまんねぇ〜〜テロリストが急に学校に来て、それを自分が退治して、あの娘の前でかっこいい姿見せれたらなぁ〜〜〜」みたいなことを考えている訳ではなくて、自己嫌悪でもなくて、何となく自分に対して諦めの感覚が身を纏っている。

諸行無常とはよく言ったもので、どっかの外国人向けに仏教を説明しているお坊さんに、諸行無常って英語でなんて説明するんですか?と聞いたところ、Everything is changingと言っていた。確かにそうだ、と膝を地面に埋まるくらい打ってしまったのを覚えている。

話が逸れたけど要するに、髪が伸びるように、どれだけ物を大事にしてもいつかは壊れてしまうように、いつかは死ぬように、この世に存在する限り永遠に同じまんまのものなんか無いって事を自覚せざるを得ないっていう話なんだよな。マリオのスターがずっと続かないように、自分もただの人間だと、凡人だと、世界に分からされてしまう。

スターが切れる瞬間のマリオってどんな気持ちなんだろうな。無敵時間が終わって、「そうえば自分ってこの程度の人間だった」って思うのかな。

この歳になってくるともう何となくわかってしまう。自分がもう子供として扱われないことや、尖り続けて変わり者であろうとする事の愚かさが。誰かと違う人間であろうとすることがどれだけ辛いことか。人の流れに逆らって歩むことがアイデンティティになんてならないことを。

まぁ自分の無敵時間が終わったってことなんだろうな。今でも自分は無敵だけど、無敵時間はきっと終わったんだろう。強がりだけはやめないけど、月並みな人間としてどう生きるか考えなくてはならない時間が近づいてきているんだろう。

いっその事アンバランスな人間として生きてみたかった。行動も歪で人格も歪で人間関係も歪で、そんな中で一つだけ真っ直ぐなものを持っている人がいたらきっと大好きになってしまう。一生その人についてってどんなふうに生きるのか見てみたいって思うんだろう。

ホントにホントにもっと変な人間になれたはずだ、誰からも正しくないと言われながらそんなの無視して世界の法則をねじ曲げることだって出来たかもしれない。そんな訳が無い。

この「そんな訳が無い」に全てが集約されているんだよな。何となく流れで書いた言葉だけど頭の中で勝手に否定してるんだよな。それが悪いこととは思わないけど。正しく生きるためには必要な機能だけど。

まぁ無敵時間がもう終わりかけてるってことに気づけただけでも十分に価値のあることなんだろうな。終わりかけの時間を大事にしろってことなのかもしれない。十分な協調性をもってほんの少しの嘘と愛嬌と適当さと優しさを持って生きよう。結局それが一番歪なんだろうけど。

 

 

 

他人とは違うって思い込むのはやめろ

どうしようもなく不安になってしまう時がある。実はない。かまって欲しいだけかもしれない。

妄想が現実に感じるし、現実が嘘のように思えてしまう瞬間がある。

結局それぞれのネガティブは瞬間の出来事でそれらが自分に影響を与えているのかは分からない。

けれど自分が最も好きな言葉の一つである「トカトントン」をそういう時に思い出すことにしている。

感情の上振れ下振れをゼロに戻してくれるような、どんだけの情熱を、どん底の絶望をなかったことにしてくれる気がする。「トカトントン」の主人公は様々な感情が無かったことになることに悩んでいたけど、自分にとっては、子供の様に自分で自分の感情をコントロールするのが下手くそな自分にとってはそういう風に生きれたらな、と憧れてしまうのだった。

怪我させてくるような人間は逆に怪我させたとしても許される可能性があるけど、たまたま体が日本刀だった人にぶつかりそうになった時に身を守るために蹴り飛ばしたとして、きっと悪いのは自分なんだろう。

あえて他人を傷付ける人間なんかそうそういないからこそどうしようも無いことってある。まともな感性を持っていれば傷付けるつもりが無いのも分かるし、他人のした事をいちいち気にするのもしょうがないってことに気づけるとは思うんだけど、それが出来ない人がいたり、そんな簡単に納得出来ない場合があることも事実なんだろう。

そんな簡単なことに気づけない人と上手く付き合っていかなきゃいけないんだろう。そんな時に、納得ができない時に、自分の中で折り合いを付けられない時に心の内で「トカトントン」と例の音が鳴って全部どうでも良くしてくれたら楽なんだけどな。

もうひとつ好きな言葉があって、それは「楽観は意志、悲観は気分」という言葉なんだけれど、要するに人間はほっといたら悲観的になってしまう生き物だから、自分からポジティブになる努力をしない限り気分は落ち込む一方ってことらしい。

そりゃそうだ。何となく不安になるのも結局自分で自分を励ます努力をしていないからで、なんの行動も起こしていない自分が、もっといえばポジティブになろうとする心持ちすら持っていない限り一生ポジティブになれる訳が無い。時間が解決するわけが無い。時間が何とかしてくれるのは感情の上振れ下振れだけで、感情の本来の位置を変えてくれるわけじゃないんだろう。

そういう訳なんで明日から自分のことを孫悟空だと思って生きることにします。どうも!世界最強の男です!よろしくお願いします!必ず太陽ぶっ壊して俺が代わりにみんなを照らしてやるからな!!

 

今日こそ明日を終わらせよう。

最も楽でいられる方法は被害者面をすることと考えがちだけど、実際のところ本当に楽なのは加害者面で罪悪感を覚え続けることなんだろう。被害者面で怒りや憎しみを覚えるよりも、「あの人に酷いことをした」「あの人に迷惑をかけた」「自分なんか居なければ不愉快な気分にさせることなんかなかった」なんて考えているほうが遥かに楽なんだろう。

ただ、自分を知ってもらおうと、自分に興味を持ってもらおうと努力した結果、しょうもな〜って思うなら、いろんな自分を見せたかっただけなのに結局何となく人から好かれるだけの人になるなら、二度と自分を知ってもらおうとなんてせずにひたすらコンテンツとしての自分を作り上げるしかないのか。(追記:要するに素の自分に対して興味を持つ人間がどれだけいるんだって話。この3年間で愛想ばかりを振りまいて最後の最後でバカバカしくなったってこと。)

きっとそうなんだろう。世の中の人間はよほど親密にならない限りほとんどコンテンツみたいなもんだろう。無料で買える小説や漫画みたいな物語の端くれみたいなもんだろう。

きっと自分の場合は自己顕示欲の暴走だ。頑張れば頑張るほど空回りする蟻地獄のような人生を送るんだろう。みんなのために、自分以外の人間のために、誰か一個人にフォーカスしない大衆向けの人間であり続けるんだろう。

きっとみんなから愛される。でも自分が本当に誰かのために頑張りたいと思ったところでその人のために頑張れる機会はないんだろう。興味関心を寄せられてみんなのものであり続けるのかもしれない。あんまり自惚れると後で恥ずかしくなるぞ。自惚れついでに、他人にとっての無料で読める面白い漫画のような人生を送るんだろう。自惚れ続けて100年後本当に何も無い人間になってしまうのかもしれない。ネガティブな人間を好きな人間なんか誰もいない。話を聞いて欲しいだけなのに、話を聞いてほしそうな感じを出すのに、実際聞いて欲しいことなんかなくて、ただのかまってちゃんが露呈して浅い人間だと思われ続けるんだろう。ひたすら自我を消して周りから好かれる人間になれる機会があるとしたら迷わず選びとるだろう。

自分が人間であり続ける限り、この苦しみからは逃れることが出来ないんだろうな。一生抱え込んで生きるしかないんだろうな。辛い気持ちが全て自分にとって薬だったなら良かったのにな。嫌なこと全部が自分にとって良い方向に変化をもたらす何かだったらいいのにな。嫌な事は嫌な事でしかなくてこの虚しさ悔しさ惨めさを埋める何かを手にすることは出来ないんだうな。強く心を持った人間だけが嫌な気持ちに対抗する術を手に入れて、そうできない人間はひたすら地獄でもがくしかないんだろうな。

いっその事誰も自分のことに興味がわかない世界で生きてみたい。どれだけ叫んでも、どれだけ暴れても、奇声や奇行で注目を浴びようとしたところでなんの意味の無い世界で生きることが出来たなら楽ではあるんだろうな。それこそひたすら簡単に加害者面で生きることができるんだろうな。

早朝の苦味、高みの見物

七輪で餅を焼きたい。ヘラも買って醤油塗りたい。もちが膨らんで固くなったところが割れる瞬間を見たい。きな粉は口の中が粉っぽくなるからつけない。バターもかけたら美味しいと聞いた。油っぽくなるのが嫌だからやらないけど。

 

勇み足が意外と痛い事を最近知った。

ボーッとすごしてたら朝になってしまったので、少しでもマシな時間にしようとコーヒーを淹れたが、勢いよく飲もうとして火傷した。

死ぬこと以外かすり傷なんて本当だ。実際死なないし。かすれ声で振り絞って声を出すような気持ちも、1つの些細なことで案外嘘になる。本当は嘘にならないことが多いけど。

 

最近寒くなってきて足の先の冷たさを思い出した。

昼間は忘れられる位のほんの少しの冷たさが、朝晩には不愉快に感じるのだから、自分勝手な足先だと思わざるを得ない。

本当に冷たいだけだったらどうするのか。本当は常に冷たくて冷たくてしょうがないのに忘れているだけなのかもしれない。冷たさを大きく上回る不快感が自分の周りをおおっているだけかもしれない。激痛が全身に走っていることを忘れられるのがもしかしたら朝晩だけなのかもしれない。

でも、本当は冷たさなんて一切感じていなくて、朝晩だけに訪れる罪悪感を、自傷行為のように、冷たいと思い込んでいるだけなのかもしれない。

身の回りに不愉快がないと生きることが出来ないのかもしれない。常にマイナスでいることで些細な幸福を少しでも大きく感じようとしているだけなのかもしれない。

焼酎をストレートで飲んだ時みたいに、別に美味しいとも思っていないのに、酒臭くて喉が焼けるように感じるのに、ほんのちょっと甘みを感じ、それを噛み締めて「この甘みがいいんだよ」と言って通ぶるのと同じことかもしれない。不快感の方が遥かに大きいのに「これこれ!これが美味いんだよなぁ〜!」と自分に言い聞かせて、そう信じ込んでいるのと同じことかもしれない。焼酎がとてもとても好きな人には悪いけど、例え話なので許してください。僕は焼酎が苦手です。

こういう生き方って結局のところ幸福の最大値を下げるだけだからやめた方がいいと思う。嬉しいことが嫌なことの延長線上にあるのは何となく不誠実だ。個人の意見だが。

 

そうえば自分は人に囲まれるのが好きな人間だった。何となくナイーブな気持ちになっていて人に会いたくねぇ〜って思ってたけど案外そんなこと無かった。大勢でいるのが好きだし、勝手に大声出してこの世全ての注目を浴びようと思ってた人間だった。正直最近は大人になろうと思いすぎてた気がする。上手いこと生きるのがかっこいいと思ってた気がする。ネガティブなことを言ってスカして自分に酔って勘違いしてた気がする。

よく考えたら高校生の頃、将来の夢を書く機会があって、「世界一ビッグな男になる」と冗談風に書いていたけど、自分の中では本気でそう思っていたことを思い出した。

些細なことが自分の気持ちを下げることはあっても必ず良い方向に思い直せる強さを持った人間が自分だってことを思い出した。全身に激痛など走らせるものか。足先の冷たさなんてどうでもいい。身の回りに不快なことは沢山あるけど間違いなく自分は幸せだ。もっと言うと自分の身の回りにいる人間も自分の身の回りにいる間は幸せなはずだ。1人が生み出せる幸福の量が常人の100倍あるのが自分だ。

誰かが見てくれるなら一生踊り続けることが出来る自信がある。

 

 

 

 

 

被害者面に蜂

今すぐにここに行こうと言われたら必ず拒否する自信がある。

悩みを解決する最適解は結局のところ譲りたくないものをとっとと譲ってしまう事にほかならない。

被害者面をするのは不得意なので加害者面で罪悪感を抱えたまま生きることになるのだろう。自らの尻尾を切り離して逃げようとするトカゲのように生きることが出来たなら、ささくれなど一個もなかっただろう。

もう大口を叩くのはやめよう。言葉遣いを気にして綺麗な言葉だけを口に出すの出そうとするのもやめよう。冗談は程々に言うようにしよう。不謹慎なことはたまにだけなら言ってもいい。適当なことは多分言わないと生きていけない性分だから処方箋通りに、用法用量を守って正しく使おう。

夢ばかり見ている

※この記事は1年くらい前の記事をしばらく下書きに戻していたのですが、ちょこっと書き直して上げ直すことにしたものです。

 

他愛ない(たあいない)から転じた表現。「他愛ない」は「たわい無い(たわいない)」から転じた表現。「たわいない」は、幼い、とりとめもない、といった意味。「他愛」は当て字。

他愛のない(たわい)の意味や読み方 Weblio辞書

 

「他愛」って当て字なのかよ。そこはこじつけでもいいからなんか意味をつけとけよ。なんとなく気になって調べてみたらがっかりしてしまった。

こんな感じでちょっとがっかりすることってなんか多いな。嘘でもいいからそこに意味があったのならちょっとでも救われるのに。

案外無意味なことが自分の思っている以上に世界に多くて、それだけ裏切られた気持ちになるのは僕が自己中心的だからなのか、それとも世界が思っているよりもシンプルにできているだけなのか。

僕を取り巻く疑問を何とかして解決するために期待した何かに裏切られるってどういうことだ。

そもそも調べてもわかんなくたってなんとも思わないのに。何もなかったならそれでいいのに「意味なんてありません」と宣言されたら「裏切られた!」ってそれはもう逆切れであって誰かのせいでもない。

だからと言ってこのもやもやした感じを解決するために何かできるかと言えば何もない。となるとなんとなく不幸な気分になる。あくまで「なんとなく不幸」ってだけでそれが悩みの種になるかと言われればそんなことはない。

けどなんかムカつく~~~~~

今日は早起きして出かけなきゃいけないのに寝れない、というかそもそも寝ようともしていないのになんかムカつく~~~~~

ホントは、ちょっとでも誰かに優しい嘘をついてもらえたなら幸せになれるのに。

何がしたいんだ。何も自分でしていないのに。外野が何か声を大にしていったところで何も変わらないのに。となるとやはり世界最強になるしかない。

世界最強ってなに?何の分野で?

そういうことはどうでもよくて誰かに「君が世界最強だ」と言ってもらえるだけで幸せになれるのかもしれない。

そんな他愛のない嘘をついてもらえたなら本当に世界最強になれる気がするのに。なれる気がするだけですでに世界最強なのに。全能感はすべての才能に優るってことを最近知ったけど、だからなんだ。全能感が備わっている人間なんか嫌いだし。

最近は自分で自分に全能感を付与しようとなるべく思い込むことにしているのはこの際置いておく。