いびつでゆがんでひねくれてねじれた人

不正と書いていびつと読むし、不正むと書いてゆがむと読むらしい。そんなの普通に生活していれば当たり前のように読めるが、意識してこの2つの言葉を並べてみると、もっと言えば漢字の成立ちも合わせてみればどうやらそれらは良くないことらしい。正しくないらしい。

最近自分のしょうもなさに飽き飽きし始めている。別に中学生の頃の自分みたいに「あーあ、毎日つまんねぇ〜〜テロリストが急に学校に来て、それを自分が退治して、あの娘の前でかっこいい姿見せれたらなぁ〜〜〜」みたいなことを考えている訳ではなくて、自己嫌悪でもなくて、何となく自分に対して諦めの感覚が身を纏っている。

諸行無常とはよく言ったもので、どっかの外国人向けに仏教を説明しているお坊さんに、諸行無常って英語でなんて説明するんですか?と聞いたところ、Everything is changingと言っていた。確かにそうだ、と膝を地面に埋まるくらい打ってしまったのを覚えている。

話が逸れたけど要するに、髪が伸びるように、どれだけ物を大事にしてもいつかは壊れてしまうように、いつかは死ぬように、この世に存在する限り永遠に同じまんまのものなんか無いって事を自覚せざるを得ないっていう話なんだよな。マリオのスターがずっと続かないように、自分もただの人間だと、凡人だと、世界に分からされてしまう。

スターが切れる瞬間のマリオってどんな気持ちなんだろうな。無敵時間が終わって、「そうえば自分ってこの程度の人間だった」って思うのかな。

この歳になってくるともう何となくわかってしまう。自分がもう子供として扱われないことや、尖り続けて変わり者であろうとする事の愚かさが。誰かと違う人間であろうとすることがどれだけ辛いことか。人の流れに逆らって歩むことがアイデンティティになんてならないことを。

まぁ自分の無敵時間が終わったってことなんだろうな。今でも自分は無敵だけど、無敵時間はきっと終わったんだろう。強がりだけはやめないけど、月並みな人間としてどう生きるか考えなくてはならない時間が近づいてきているんだろう。

いっその事アンバランスな人間として生きてみたかった。行動も歪で人格も歪で人間関係も歪で、そんな中で一つだけ真っ直ぐなものを持っている人がいたらきっと大好きになってしまう。一生その人についてってどんなふうに生きるのか見てみたいって思うんだろう。

ホントにホントにもっと変な人間になれたはずだ、誰からも正しくないと言われながらそんなの無視して世界の法則をねじ曲げることだって出来たかもしれない。そんな訳が無い。

この「そんな訳が無い」に全てが集約されているんだよな。何となく流れで書いた言葉だけど頭の中で勝手に否定してるんだよな。それが悪いこととは思わないけど。正しく生きるためには必要な機能だけど。

まぁ無敵時間がもう終わりかけてるってことに気づけただけでも十分に価値のあることなんだろうな。終わりかけの時間を大事にしろってことなのかもしれない。十分な協調性をもってほんの少しの嘘と愛嬌と適当さと優しさを持って生きよう。結局それが一番歪なんだろうけど。