星一個分暗い

最近、僕くらいの歳(20歳過ぎ)になると少しづつ成功者が出てくる。起業して上手くいったりとか、プロスポーツ選手になりそうだとか、その類のどこまで続くか分からない成功を噛み締めている人間がちょくちょく出てくる。かと言って僕はじゃあ何か為し得たかと言われると成果無しだ。

僕の歳くらいで成功し始めるってことは少なからず青春を何かに捧げる必要があって、「なんでも出来る時間」を「何かした時間」にした者たちの成功なんだろうと思う。

僕は成功に至る犠牲を何一つ払ってないが、僕が本当に何もしてなかった訳ではなくて、それはそれは楽しく過ごさせて貰ったことに違いない。ただ、青春と言える期間が終わりに近づいてくるにつれて満足感や充実感だけが残り、まるで風船のように膨らむだけ膨らんだ青春の期間をなんと表せばいいのだろうか。そこに素晴らしき時間があり、人に恵まれ、幸せであったことは間違いないのに、端的に表す言葉が見つからないのは何故だろう。

きっと僕は青春の清算をするにあたって、つまり、他人に僕の青春を説明するにあたって、何かしらの成果が欲しいのだろう。僕の青春を詰め込んだ言葉で、唯一無二の言葉で誰かに自慢したいんだろうと思う。確かに僕の経験をそのまま他人に、生のまま伝えることが出来るのならば人は間違いなく羨むだろう。だって幸せだったんだから。けど、自分で自分のことを説明したところできっと詰まらないしリアリティが無い。他人に自分のことを語らせる方(出来事の当事者以外が当事者について語るということ。)がよっぽど面白い。

唯一無二であり、かけがいのない時間であったものが、成果として説明できない以上、誰よりも幸せであった自覚はあるのに陳腐な言葉に成り下がってしまうことに嫌悪感を感じているのかもしれない。

実際こんな悩みは抱えるだけ無駄で、何とか言葉にして誰かに伝えない限り誰にも伝わらないというのは分かっていても、ただの思い出として他人に処理されるのは許せないので、それならば誰にも伝えない方が…と思ってしまう。それが無駄だと分かってはいるけども。

 

一方で、誰にも語るべきではないとして、心の奥底に秘めたところで僕の学生時代に何も残らなくなってしまうので困る。将来学生時代の事を聞かれて「なんもなかったっすね〜」って言う人間はきっとこういうタイプなんだろう。むしろ小さな事でも他人に語ることが出来るほどの精度で自分の中のエピソードを洗練する訓練でもした方がいいのかもしれない。

 

僕は多彩すぎるのかもしれない。自惚れじゃなく、悪い言い方をすれば器用貧乏だし。なんでもやろうと思えばできる気がする。できる気がするからこそ挑戦する意義を見いだせないのかもしれない。もしかしたら僕がもちあわせているのは全能感だけで本当は何もできないかもしれない。全能感は全ての才能に勝るが、逆境に打ち勝つために必要なのは全能感よりもむしろ意思だろう。

 

いっその事、人生が弾け飛ぶスリルに身を任せてみるのもいいだろう。世紀末も過ぎれば昨日だと割り切って暴れ回るのもいいだろう。そんなふうに派手に、誰もから注目を浴びる人間として生きるのならばむしろ楽だろう。世の中の苦悩の大半は世の無理解から来るもので、自分か如何に苦労しているか、自分か如何に努力しているかを理解してくれる人が周りにいたらどれだけ楽なことだろう。実際は世の中の大多数が抱えてる悩みを自分だけのものと勘違いし続けることが出来たならばある意味人間として優秀だろう。

ただ、こんなのは子供の戯言で、結局のところ絶望も希望もしてない状態では生きるしかないので、悩ませられ続けるんだろうな。一生抱え込んで生きるしかないんだろうな。これは悲観的になっている訳じゃなくて、ある意味希望でもあると思うんだよな。つまり、抱え込むことを運命と悲観するよりも、そういうものだとして自覚できていることに意味があると思う。そういうものだとして思ってしまう。

やはりアランの『幸福論』は正しかったと改めて実感させられる。悲観は気分であり、楽観は意思だと。そうえば太宰治も似たようなこと言ってたな。(と思って軽く読み直したら思い違いでした。僕が思い違えていたのは『トカトントン』より、「真の思想は叡智よりも勇気を必要とするものです。」という文をアランの『幸福論』みたいだなと思ったらしいです。あながち間違いじゃないと思うけどやっぱり厳密には違うんじゃないかなと思ったり思わなかったり。)

まぁ何はともあれ、心を強く持つことこそが自分の経験をプラスに昇華するコツなのではないだろうか。

あ〜〜〜俺の悩みしょ〜〜〜〜もな!!!

 

 

 

ちなみに太宰治の『トカトントン』は僕の人生のバイブルとも言える文であり、自分にとっては自らの内面を見つめ直すきっかけとなった文だから良かったら読んでみてみるといいと思います。