素晴らしい風のクレイジー

 人間誰しも悩みを抱えているけれども、その悩みが本人以外にとって瑣末なことはよくあることで、他人の悩みを聞くことで自分かいかにまともか、または、悩みを抱えている当人より優れていることを実感することがある。けれど、その実自分が悩みを抱えた時には他人にとって瑣末な問題で寝れなくなることはよくあることなんだろう。

 けれど、その悩みも自分の1部だと認め、別のことに昇華出来る人間がどれだけいるだろうか。好きなことだけして生きることができるならば寝れなくなることは無くても苦しくないことに慣れすぎて今後1000年自分で立つこともできなくなるかもしれない。世界の滅亡の瞬間までスマホを眺めているかもしれない。本当に好きな人のために自分は何もしないことを選ぶかもしれない。

要するに行動することを避け続けて正当化し続ける日々を送るのかもしれない。それで自分は満足するかもしれない。自分は満足したとして世界のうち自分という存在が、その質量が占めている分だけ満足したとしてその周りが不愉快極まり無いかもしれない。結局のところ豊かな人生には自分が満ち足りたとして、自分の周りに不幸な人間がいたら成り立たないのかもしれない。パーティの途中でつまんなそうに1人で座っている人に自然と目がいってしまうように(少なくとも自分はそう)、緩やかな幸福よりも身の回りの小さな不幸に目がいってしまうものなのかもしれない。

だったらなんなんだ。

俺がこの世で一番幸せなのに他人の事考える必要あるか?

きっとある。