さすがに死んだらちょっと落ち込むな
無責任はどこまで許されるのか
全く関係ない奴に「お前は明日100万円を拾う」と言われたとして、翌日100万円を拾わなかったと言ってそいつを責められるわけもない。
信用してる奴に「お前ならできる」と言われて本当にやって見てダメだったら誰を信じればいいのか。
僕は常に無責任でいたいと思ってるけど、どこまで言っても人である限り必ず何らかの責任を負わなきゃいけないわけで、強いていえば人に生まれた限り死ぬまで人でしかいられない事の責任を神社に行って神に負わせようとするくらいしか出来ないでしょう。
許せない奴を懲らしめようとして、その懲らしめる行動の責任はだれがとるのか。
恵まれない家庭に生まれた事実があったとしてその責任は産んだ親か生まれた子供のどっちにあるのか。
別に僕の不幸を嘆いているわけじゃないけど、むしろ僕は幸せだけど、いつかきっと嫌な思いをする。どっかの大学の研究で、確かハーバードだった気がするけど、人間がよく幸せを感じるのは、同じ志を持ったコミュニティの中で頼り頼られてる状態だそうです。実際のところ僕は周囲の人間に頼ってばかりで頼られたい。だから大口をよく叩いたりするけど責任を一切負いたくないから冗談で終わらせてしまう。
それが悪いことなのかと言うとそういう訳でもないと思う。その言葉で安心する人もいるかもしれないし、逆にムカつく人もいるかもしれない。僕に言わせれば勝手に安心したりムカつく方が悪いから僕は関係ないけど。
頼られたいならそれ相応の努力と頼られ続けるための責任感が必要なくせにその両方を放棄して自分の欲望だけはいっちょ前に持つんだからタチが悪い。
けど何となくちゃんと生きている実感が欲しいから、だから一日の中で普通ならなんとも思わないようなしょうもない事でも「嫌な思いをした」ことにして人生のスパイス代わりにするんだから案外僕は生きるのがうまいのかもしれない。
本当に僕は幸せすぎるのかもしれない。誰に頼られることも無く生きているのだから。そしてきっと真の意味で「嫌な思い」をする未来だけはハッキリ見えているのに何とかしようとしないのもきっとそのせいだ。僕は無責任に生きようともはや心に決めつけられてしまったので本当に困ってもはや喉も鳴らすことも出来なくなった時には、大声で泣き叫ぼうとして「まぁいっか」と言って「こんなもんだろ」と言って「きっとこれは俺のせいだ」と言って死ねたらいいな。