ご自愛ください

普段1000字を目安に書いているこのブログの記事がとても長くなってしまった。纏める能力が低いのかとも思ったが、思ったことを思った順に書いていったらこうなったのであえて添削せずにそのまま載せた。どういう風に考え方が変わったか順に書いてある方がわかりやすいと思ったので。段落の段落の間に文章の繋がりが全く見いだせない部分があるのは疲労のせいでひとつの事について集中して考えられなくなっていただけなので、急に話が変わったなと思ったら無理に繋げて考えない方が混乱しないと思います。(段落が変わった後の字下げを行っていないのは単に僕の怠慢です。他の記事でも大抵してませんが。)

 

 

日に日に自分のささくれが大きくなっている。右手の親指の側面が無くなってしまったと錯覚してしまいそうだ。削れば削るほど無くなって欲しくないし、治れば治るほど削りたくなるそれは間違いなく自分に与えられた罰だろうと思うし、罰でなかったとしたら耐えられない。

自分がもし仮に優れた表現者であったなら、他人の気持ちを勝手に代弁して多くの人を納得させるのだろう。1番納得していないのは自分なのに他人を納得させることについては右に出る者がないような人物でなくてよかった(自分が)。

純粋が仇になる世界でどれだけ純粋でいられるかは本人の努力以上に身の回りの環境によるところが大きいと思わざるを得ないが、ある特定の人物について自己を完璧に捨て、本気でその人物の為だけに生きることが出来るのなら誰よりも純粋でいることが出来るかもしれない。

 

実は数日前から腹痛が収まらない。飲酒のせいだと思い込むようにしているがもはやこれ以上自分を誤魔化すことが出来ないレベルで長続きしている。

手首を裂いたところで1ミリも状況が良くならないことだけは確信できるのでまだ自分は大丈夫だが、自分が自分に言う「大丈夫」ではなく、自分が他者に言う「大丈夫」が自身を抑圧した結果の発言になりつつある。

もし自分の夢が叶うのなら今は、コンビニで安心を買えるようにすると思う。億万長者になることでも、不老不死を得ることでもなく、とにかく今は安心が欲しい。

世の中には安らぎよりも素晴らしいものが数え切れない程ある事など知っている。ただ、それよりも、「安らぎより素晴らしいもの」に付随する不確実性に気を狂わされてしまいそうで、ひたすら安心が欲しい。

常に意識が遠のいていくような感覚でいつもの道を歩かなければならない。

自分の人生のスローガンは「悲観は気分、楽観は意志」だ。「そういうものだ。いずれ良くなる。」と勇気を振り絞って自らに囁くことが今最も必要なことなのに、もしかしたら誰かの手を借りる必要があるかもしれない。

自分は目立ちたがり屋だと思っていたが案外そうでも無いかもしれない。ただ誰かに少しでも覚えていてもらいたいだけなのかもしれない。多くの人の目に留まることで、自分を受け入れてくれる心優しき人だけを選別して自らの側に置けるように、卑怯で卑屈な考えをこねくり回しているだけかもしれない。

自分が大口を叩くのはその発言で誰かを救おうとしている訳じゃないのかもしれない。自分でも自覚していないが本当に守っているのは自分一人だけかもしれない。

自分という人間は、本当は誰かの為に何かすることが出来る人間じゃないのかもしれない。自分は誰かのために崖から崖へ飛び移ることが出来ない人間なのかもしれない。ただ今にも飛び移りそうなポーズをとる事が世界で1番上手いだけの人間かもしれない。

自分のことを優しい人だと言ってくれる人には今まで何人も居たが、結局誰かを救い出したことなどないと思う。常に1歩引いたところから気遣いの言葉を吐いているだけで、要するに、気休めの言葉だけで生きているのかもしれない。本当に誰かの助けになるためには踏み込む必要があるのだろう。

でも自分は図々しい人間がこの世で最も嫌いなタイプの人間だ。自分がそうなりたくないから常に1歩引いているのだとしたら、真に優しいのは自分の嫌いな図々しい人間なのかもしれない。

自分は他人をわざわざ傷つける事だけは真に嫌っているが、故意じゃなく他人を傷つけるなんて蚊に刺されるのと同じくらい気付かないうちに行われていることで、何も具体的に何か自分が傷つけたか自覚がある訳じゃないが、その可能性を考えるのは、自分にとって、辞めたくても辞められないものなんだろう。痛みを伴う優しさを持つことが自分がまともな人間でいる為には必要なのかもしれない。

 

自分はとても負けず嫌いで、それは自分に対する評価が日によって変わる自分にとって唯一の変わらない評価であると自覚している。

このブログの文体が最近ですます調ではなくなり、書き言葉に寄せて書いているのも自分をなるべく客観的に見るために始めた事だが、ですます調でこのブログの記事を書いている時から自分が負けず嫌いであるという自覚だけは変わらないはずだと思っている。

そんなことをわざわざ書くのは自分の弱音に負けないためだ。

まずひとつに、自分は他人に対して優しいという自覚を持つべきだ。一言二言のアドバイスなんかで他人を変えられるほどの強烈な言葉を吐けるほど自分は乱暴じゃない。

もっと自分は傲慢になるべきだ。腹痛なんかを理由にして考えることを辞めるな。ネガティブな事を書いておけば誰かに注目されると思うな。自分はポジティブな人間が好きだし、元々楽観的な自分を無理にネガティブにしようとするな。もしかしたらそれで声を掛けてくれる心優しき人はいるかもしれない。そういう人間が周りにいたらたしかに幸せだが、自分はどちらかと言えば声をかけるサイドにいるべきタイプの人間なんだ。

何が虚勢だ。他人にとって口に出した言葉が真実なのだから、虚勢なんて関係ない。虚勢だとしたら自分で真実にする必要がある。自分がメンタル弱いわけが無い。元から心が弱らないことに越したことはないが、弱った時の対処法を自分で持っている時点で充分強い部類に入るはずだ。自分は誰にも負けない才能を持っているはずだ。何なのかは自分じゃわかないが、人に好かれる才能かもしれない。

自分のことを嫌いな人間なんてこの世に居ないのだから、自分が世の人間全てを嫌いにならない限り幸せに生きることが出来るはずだ。

本当に必要なのは全能感じゃない。全能感を持って自分は生きているが本当に必要なのは勇気を必要とする意志なのは以前に身に染みて分かったことだ。胃が痛くてしょうがない時、頭がおかしくなってしまいそうな時、身体の末端に力を込めることが出来る人間が強く生きることの出来る人間なんだろう。全ての嫌な出来事に対して、即座にそうできる必要ないが、時間をかけても良いから壁に頭突きしに行くほどの気持ちを取り戻し、自分に打ち勝つ必要があるな。