自分にとって難しいこと

生きることが難しい。

人生に艱難辛苦は付き物だとして痛みに必死に耐えることが良い人生には必要かもしれない。もしかしたらみんな当たり前にやっていることなのかもしれない。自分にとってはそれが難しい。

自分にとって当たり前にやっていることが他人からしたら難しいことがある。逆も然り。当たり前の話だが。

自分は楽観的で他人に劣等感は感じないものの自分と話している人間にあるのは本当のところ「自分に対する興味」しかないんじゃないかと考えてしまう。世の中には本当に誰かと話したくても上手く話せない性格の人間がいることは分かってはいるし、興味を持たれていると自分で考えていること自体が傲慢かもしれないが、結局のところ誰にも嫌われていないだけで自分のことを好きで話し相手になってくれている人なんか居ないんじゃないか。もしかしたら自分は他人にとって「たまたまそこにいた知り合い」程度の人間になってしまっているんじゃないかと考えてしまう。もしも自分以外に誰も住んでいない街があったとしたらどれだけ楽だろうと考えてしまう。そんなわけあるか。

身の回りの心優しき人達に何とか受け入れて貰ってギリギリ生きている自分が本当に1人になったらそれこそ世界が地獄になってしまう。タダでさえ全てに対して言い訳をしている僕が、真に追い込まれて一切の誤魔化しがきかなくなったら潔く人生に負けたことを認めることができるだろうか。多分負けた事は絶対認めないんだろうな。それはそれで自分のいい所かもしれない。

こういうことを考えてしまう時はだいたい疲れている時で、理由もないのに不安になったり不機嫌になってしまうのは結局のところ、自分が何もしていないからなんだろう。

僕のこのブログでは度々話題にあがるアランの『幸福論』では自然な状態では人間は不機嫌になるもので、何もしなければ勝手に落ち込むみたいなこと書いてあったな。「悲観は気分、楽観は意志」もはや引用しすぎて半分僕の人生のスローガンみたいになっている。好きな言葉です。

世の中の辛いこと全てが薬だと思って生きる事にしよう。死にたくなる気持ちがきっと自分をいい方に導いてくれるし、誰とも話したくないと思う時があるからこそ誰かに何かを伝えたくなる瞬間があるのかもしれない。本当かどうかは知らないけど実は世界は自分のためにあるらしい。

 

人生最高最高!!!