早朝の苦味、高みの見物

七輪で餅を焼きたい。ヘラも買って醤油塗りたい。もちが膨らんで固くなったところが割れる瞬間を見たい。きな粉は口の中が粉っぽくなるからつけない。バターもかけたら美味しいと聞いた。油っぽくなるのが嫌だからやらないけど。

 

勇み足が意外と痛い事を最近知った。

ボーッとすごしてたら朝になってしまったので、少しでもマシな時間にしようとコーヒーを淹れたが、勢いよく飲もうとして火傷した。

死ぬこと以外かすり傷なんて本当だ。実際死なないし。かすれ声で振り絞って声を出すような気持ちも、1つの些細なことで案外嘘になる。本当は嘘にならないことが多いけど。

 

最近寒くなってきて足の先の冷たさを思い出した。

昼間は忘れられる位のほんの少しの冷たさが、朝晩には不愉快に感じるのだから、自分勝手な足先だと思わざるを得ない。

本当に冷たいだけだったらどうするのか。本当は常に冷たくて冷たくてしょうがないのに忘れているだけなのかもしれない。冷たさを大きく上回る不快感が自分の周りをおおっているだけかもしれない。激痛が全身に走っていることを忘れられるのがもしかしたら朝晩だけなのかもしれない。

でも、本当は冷たさなんて一切感じていなくて、朝晩だけに訪れる罪悪感を、自傷行為のように、冷たいと思い込んでいるだけなのかもしれない。

身の回りに不愉快がないと生きることが出来ないのかもしれない。常にマイナスでいることで些細な幸福を少しでも大きく感じようとしているだけなのかもしれない。

焼酎をストレートで飲んだ時みたいに、別に美味しいとも思っていないのに、酒臭くて喉が焼けるように感じるのに、ほんのちょっと甘みを感じ、それを噛み締めて「この甘みがいいんだよ」と言って通ぶるのと同じことかもしれない。不快感の方が遥かに大きいのに「これこれ!これが美味いんだよなぁ〜!」と自分に言い聞かせて、そう信じ込んでいるのと同じことかもしれない。焼酎がとてもとても好きな人には悪いけど、例え話なので許してください。僕は焼酎が苦手です。

こういう生き方って結局のところ幸福の最大値を下げるだけだからやめた方がいいと思う。嬉しいことが嫌なことの延長線上にあるのは何となく不誠実だ。個人の意見だが。

 

そうえば自分は人に囲まれるのが好きな人間だった。何となくナイーブな気持ちになっていて人に会いたくねぇ〜って思ってたけど案外そんなこと無かった。大勢でいるのが好きだし、勝手に大声出してこの世全ての注目を浴びようと思ってた人間だった。正直最近は大人になろうと思いすぎてた気がする。上手いこと生きるのがかっこいいと思ってた気がする。ネガティブなことを言ってスカして自分に酔って勘違いしてた気がする。

よく考えたら高校生の頃、将来の夢を書く機会があって、「世界一ビッグな男になる」と冗談風に書いていたけど、自分の中では本気でそう思っていたことを思い出した。

些細なことが自分の気持ちを下げることはあっても必ず良い方向に思い直せる強さを持った人間が自分だってことを思い出した。全身に激痛など走らせるものか。足先の冷たさなんてどうでもいい。身の回りに不快なことは沢山あるけど間違いなく自分は幸せだ。もっと言うと自分の身の回りにいる人間も自分の身の回りにいる間は幸せなはずだ。1人が生み出せる幸福の量が常人の100倍あるのが自分だ。

誰かが見てくれるなら一生踊り続けることが出来る自信がある。