壊れたエンジンは火事場の馬鹿力を見せるのか

  一人の人間としての僕という存在がこの世で唯一ということは当然ですが、この世には僕のような人間が沢山いて、つまり、僕の代わりになる人間は沢山いるわけです。僕も誰かの代わりになることはあるでしょう。僕の上位互換や下位互換なんてこの世に履いて捨てるほどいるということを頭では理解してしまったとしても、実感することは実のところそんなにないです。むしろ実感したくないからこそ他人と違うことに惹かれるのかもしれません。傷つかないための防衛を本能でしているわけですね。中には傷つかないために敢えて傷つくことをする人もいるでしょう。「傷つくことをしているから傷つくのだ。本来は、本気だったら、いつも通りだったら、傷つか無いので特に気に病むことでもない」みたいな言い訳を自分にして生きるということです。

  それが悪いことかと言われれば、僕は特にそうは思いませんが、傷つくことを一切許せない人間という者もいて、いわゆる完璧主義者ですが、彼等は自分の中では完璧であるが故に自らの存在を唯一無二かつ最上と思うことで防衛を果たしているわけです。本当は壊れないように保っているだけなのに。

  世の中には沢山の種類の人がいて、決して一括りには出来ないことは当然であるということは理解していますが、どうしても自分を枠にはめて考えてしまうこともあります。他人と違うことに本能的に惹かれているのに枠にはめて考えてしまうとは何事でしょうか。何事でもなくただの気まぐれかもしれませんが、他人と違うことと、特定の誰かと同じであることは相反する望みではないんでしょうね。かく言う僕も高校生の時、停学をくらった時は「尾崎豊と一緒じゃん」と考えました。ついでに歌手デビューでもしてしまおうかなど、呑気なことを考えようとしても停学をくらった事がどんなことか自分でも理解しているので多少後悔の念に苛まれたりしました。とは言っても僕は先天的に楽天的なので、特に深く考えたりもせずボーッとしていました。このような小さな傷が胸の内でじんわりと暖かく感じる日は来るのでしょうか。来なくてもいいが来てもいい。

  他人と違うことに本能的に惹かれてしまうのは僕だけなのかそれとも人間の精神的な作用としてよくあることなのか、おそらく後者でしょう。他人と違うことに惹かれるのではなく、自分という存在が本質的に唯一無二であることに惹かれているのでしょう。

 

知るかボケ。さよなら。