自分は何者になれるのか。(偽)

最近スーサイド・スクワッドという映画を見ました。極悪人達が活躍する映画と聞いていたので汚い言葉とド派手な爆発でノリと勢いで押し切る世紀末ヒャッハーな映画だと思っていたのですが、想像よりもゆっくり話が進んだので虚をつかれたような気分になりましたが、まぁまぁ楽しめました。けどまぁストーリーがところどころ大味で気になってしまう点がチラホラあったり、ゆっくり話が進むせいで若干テンポ悪いなと感じたり。

普段僕は映画を見る方では無いのでこんなこと言ってたら映画好きに怒られそうな気もしますがそう思っちゃったなら仕方ないでしょう。

ただエンディングの映像が良かったです。あそこだけもう1回観たい。アマプラにある限りいつでも見れるんだけど。

こういうことをアメコミ映画で考え始めたらもう楽しめないんだろうな。映画に出てるそれぞれのキャラクターのバックグラウンドを全く知らなくても楽しめるようにするためには仕方ないんだろうな。そんなもんなんだろうなアメコミ映画って。爆発を楽しんでブラックジョークを笑い飛ばすもんなんだろうな。きっと「ブラックジョーク」という言葉もそのうち良くない言葉として使われなくなるんだろうな。悟りを開いた気になってる人間が自然淘汰のフリして世界を作りかえちゃうんだろうな。気づいたと思ってるんだろうな。より善い世界にしたいんだろうな。思い通りの世界に作りかえたいんだろうな。誰だって自分が居心地いい場所を作りたいんだろうな。まぁ自分は勝手にやっとくので好きにすればいいんだけど。勝手にしとけばいい世界だったらいいのにな。

どうやら自分は成人してから数年経つらしい。もう立派に大人の仲間入りしたはずなのに、人生の節目としては十分すぎる時を過したはずなのに、一生生まれ続ける可能性の中から取捨選択してきたはずなのに、未だ見通しが立たないのは怠慢なんだろうか。

言い訳ならいくらでも浮かぶ。そういう人だって大勢いるので自分が特に劣っている訳では無い、だとか、そのようなことを考えているうちは問題ないだとか。

でもそういうことを考え続けているのが本質的な問題であって、何かしらの目的を見つける必要があるんだろうな。無からある地点においてのゴールを生み出すことが死ぬよりマシな状態ってことなんだろうな。別に今の自分は幸せだと自信を持って言えるけど今の自分に未練も後悔もあるかと言われれば少なからず悩んでしまうと思う。

何者かになるために今まで取捨選択をし続けて有り得た自分を消し続けてきたのに「結局こんなもんか」、「そんなものだろう」と自分に形式上の納得すら与えられないのは自分が目立ちたがり屋だからだろうか。

まぁ死にたくないから生きておこっと。