頭が悪い男の文

僕は日頃、サブカルチャーにどっぷり浸かった生活をしているが(ここ最近は忙しくてそんなことできなかったけど)なにやら規制に関するニュースをよく聞くようになりました。

だからなんだ。

日本のアニメやマンガの表現の規制って海外に比べてゆるゆるらしいですね。聞きかじったことで詳しいことは知らないけど。まぁだからこそ発展したんだろうけど。僕は特に規制は必要だと感じませんがそう主張する人がいるってことは、何か必要にかられてやっているわけで、自分の固定観念を破壊するような人って割とこの世に沢山いるのかもしれません。

 

自分の固定観念を破壊されるってどういう事なんでしょうかね。

「目が覚めた」とか言う人もいれば「カルチャーショック」という言葉にもあるように、自分を信じられなくなる人もいるんでしょうね。

これが自分にとってプラスになるかマイナスになるかの境目って何なんでしょうか。

やっぱり本人の思想によるんでしょうか。

そもそも「これだけは死ぬ時まで信じていたかった」というものって信じることが出来なくなって初めて分かる事なのでそういうことが起きるまで自覚できないのが辛いですね。何が辛いのかは知らないけど。

固定観念に包まれて生きているのは自覚できてもそれが具体的に何なのかは分からない、というか分からないからこそ固定観念なのか。

じゃあなるべく全てのものを受けいれて、出来るだけ自分の中の固定観念を無くしていくことがいい事なのかというとそうでも無い気がします。

だからなんなんだ。

固定観念ってアイデンティティに直結してませんか。

「僕はこういう人である」ということが固定観念とどういう所で繋がってるかってもはや自明ですが、自分が自分であると信じてる事がそもそも固定観念であるのだとして、それを疑って自分が何だか安定しない人間であることっていい事なのかどうなのか。

 

固定観念という言葉に引っ張られすぎているという説は?

 

僕が思っている以上に固定観念はそんなに固定的では無いのかもしれません。それって破壊される前提の言葉なのでは?破壊される前提では無い固定観念を常識というのか?というか僕の固定観念に対する認識が間違ってるのかも。そう言われるとなんだか違う気がしてきたな。

 

そもそもアイデンティティ固定観念と直結させることって合ってるのか?

 

己の己に対する自覚って割とその時々で変わってくる気がするな。

いや、いつでも自分を自分と確信できる要素をアイデンティティと言うのか。

なら別に固定観念アイデンティティと直結されても間違いではなさそうだな。

この浅学非才な僕にその辺のことを教えてくれる人がいたら教えてください。聞きかじった知識マウントでも受け付けます。

 

ところで、まだ話の結論が出てないけど結論を出すのが面倒なのでちょっとズレた話を始めますが、いや、やっぱ違う話を始めるのも面倒なのここで辞めます。

 

まぁ僕はこうやって考えたことを文に起こして自分で読んでみるついでに公開してる訳ですが、いかに自分の頭が悪いか毎回自覚しなきゃいけないのってそれはそれで辛いんですよね。例えば上記のものについては読み返してみたところ、なにやら難しい話をしているようで特に深い考察もなくダラダラ書き連ねているだけだと思ってしまうんですね。

まだまだ僕は若いのでこれから色々学んでもっと色んなことについて自分で納得できる答えを用意できるようになるんでしょうが、このモヤモヤした感じは一生僕につきまとうんでしょうか。成長過程だからこそこういう事を思うんでしょうか。僕は特に学者やインテリを目指している訳では無いので、何か特定の分野について継続的に深く考えるような機会は無くなっていくと思うと恐ろしい。

というかそもそも自分で自分をハッとさせる文を書くのは不可能なのでは?

結局自分で考えてる事なんだから、自分で自分を納得させるために書いているんだから、どこまでいったって自分に甘いことばっか考えてしまうのは自然な事なのでしょうね。『痛みを伴う改革を』とは小泉総理が言った言葉ですが(先に述べておくと僕はその内容を詳しくは知りません。)自分自身をハッとさせるっていうのはある意味自傷行為なのかもしれません。だとしたらゴッホが自らの耳を切り落としたというのもなんだか分かる気がします。気狂いの結果、身体的に自らを傷つけることを選んだわけか。

そういう自問自答を出来るやつが頭良い奴ってことなのかもしれない。

 

いつも千字くらいを目安に書いてるんですけどちょっと長くなっちゃったな

 

さっきむせたのに無理やりコーヒーを飲み込もうとしたら吹き出しちゃって、電気ストーブにぶっかけたら意外と「ジューッ」っていい音がしたのでこれから毎日寝る前の習慣にしようと思います。

 

さよなら