あけましておめでとうより先に言っておくべき言葉があっただろ

どうも。2019年が終わり人々は三が日まで正月気分なんでしょうが、僕はどうかと言うとそうも言っていられなくて、とりあえず新年の挨拶はしとこうと筆を執った次第であります。

 

特にイベントが多い日本の年末ですが僕はと言うと、特に何も無くいつも通り過ごしたので年が明けた実感がありません。

去年はメリークリスマスも良いお年をも言わずに1年が終わってしまいもしかしたら僕だけ2019年に取り残されてしまったような気分です。

まぁ実を言うと今日初詣に行ってきたのですけどね。

けど上述した通り僕は「良いお年を」なんて言ってないわけで、別れの挨拶をせずに新たな年に挨拶をしてしまい、手続きが正常に行われなかったためリセットします。と言われる可能性にひたすら怯える日々です。

人は、というか動物というのは、何らかの形で他の同種族に出くわした時挨拶するもので、僕もその例に漏れず人並みには挨拶しますが別れの挨拶をするのは人間くらいじゃないでしょうか。知らんけど。もし別れの挨拶をする動物がいたら教えてください。

で、去年に別れの挨拶をしなかった僕は当然ですが去年にお別れできていないので今は2020年の正月と同時に2019年の年末の続きをやっていることになるんでしょうか。

このまま時が進んだら僕はどうなってしまうんでしょう。2つの違う時間を同時に味わい続けるのは健康にとっていいのでしょうかね。

ところで、今がまだ2019年だとしたら今日は何月何日なんでしょうね。暦の上では1月2日ですが、今は2019年の12月33日なんでしょうか。とすれば、僕は永遠に終わらない12月を過ごし続けることになるしこの冬の焦燥感を無限に感じ続けるのでしょうか。師走はまだ終わらないしこれからも続くのでしょうか。かつてキュルケゴールが『死に至る病』でそれは絶望だとしたように僕の場合は無限の焦燥感なんでしょう。無限の焦燥感が絶望なのかもしれません。

人がなんとなく秋から冬にかけて寂しさを感じるのは草木が枯れて1年の終わりを感じ取るからとかではなくて、絶望してるからなんでしょうね。絶望してるなんて全く思わないかもしれませんが、絶望してることに気づかないことが絶望なのかも知れません。知らんけど。この発言に責任を取るつもりはありません。同じように1年の終わりに対して誰も責任を負ってくれないことに対して絶望してるのかも知れません。「どうかあなただけの自分の責任で終わってください。あなただけで自己完結してください。」と言われているようです。

まぁ去年にお別れできなかったのは挨拶を忘れた僕自身の責任なんですど。こうやって屁理屈を捏ねてるのが楽しいのか。僕は頭良くないので屁理屈が屁理屈ですら無くなってるかもしれませんが、僕が屁理屈だと言っている以上これが屁理屈なんです。

 

もっとまともな文が書ければいいんですけどね。

 

また話は変わりますが、これはよく聞く話ですけど、昔の日本人は写真を取られたら魂が吸われるみたいなこと言ってたらしいじゃないですか。ふと唐突に頭に思い浮かんだのですが、昔はその技術を怖がっていたのが今ではそのように怖がる人なんていないですよね。これは科学の普及や教育の賜物なのは言うまでもないですけど、昔と違って現代人は技術を怖がると言うより技術を扱う人間の内面を怖がるようになったのかなと、考えてしまいました。

例えばテロリズムとか、環境汚染を招く行いをする人間に対する批判とか発達による格差が産んだ貧困とか。

科学の発達によって間違いなく人類の生活の質向上しましたが不利益をこうむってる人も間違いなくいるわけで、さらには1度生みだしたものは無かったことには出来ないわけで、何らかの技術が溢れてる今はもしかしたらそれらの不利益に対する何かを生み出したとしても根本的な解決を産まずにツギハギ程度の効果しか産まないんじゃないかとか思ってみたり。

まぁ僕はテクノロジーに関する一切の知識がないのでなんとも言えませんが。謙虚でごめんな。

人類の発展が本当に発展だったのか感じる機会は先進国に住んでる限り感じないんでしょうね。わざわざ不利益を感じたくもありませんが。

 

ところでさっき「人間の内面を怖がるようになった」と書きましたが、内面を怖がり始めたら僕らは何を信じればいいんでしょうか。神か。もしかしたら科学が発展した今だからこそ宗教の重要さがわかるかもしれませんね。僕は宗教についても無知なのでなんとも言えませんが、これは僕が大学で学びたいテーマの1つでもあります。

だからなんだと言うんだ。とっとと寝て勉強した方がいいのでは。書くのかめんどくさくなってきたのでもうやめて寝ることにします。

 

さようなら。